豊川 大寶山 西明寺

大寶山 西明寺

寺院沿革

 千年の昔寛和の頃、三河の国守大江定基公は東三河のこの地に赴任され、東の岡に庵を営みこれを六光寺と名づけられました。定基公は都にお帰りになるにあたって、愛染明王像一躯をお残しになりました。

 鎌倉時代に入り北条時頼公が出家して、執権最明寺入道時頼となり、諸国巡業の折、この地の風光明媚を愛でて暫く留錫されましたが、去るにあたって護身の不動明王像一躯を残されました。よって一堂を西の岡に建立して奉祀し、六光寺は最明寺と改称され禅宗寺院になったと申します。

 鐘楼永禄5年(1562)徳川家康公全国平定の業なかば鷺坂合戦の折、四世快翁龍喜和尚が粥を炊いて軍兵に供しましたところ、公はこれを徳とし寺に役宿され、安阿弥作と伝えられる本尊阿弥陀如来を拝されましたが、これが慶長8年(1603)伏見城において六世伝芝全授和尚が朱印状を賜る機縁となりました。この時、弥陀の浄土にちなみ最明を西明に改められたと申します。以来三百年、歴住は国家安穏・民生富楽の祈願を厳修するとともに、檀家の教化・衆僧の研鑚・後嗣の育成などに心を砕き、禅宗道場としての伽藍の維持修造にも力をつくしてまいりました。

 現代になっては昭和5年(1930)日本医学の恩人ベルツ博士の供養塔が、花夫人によって本堂前庭に建立されました。これは博士が生前厚く仏法を信仰され、また当寺が花夫人の先祖の菩提寺であったことによるものでありました。傍らに水原秋桜子の句碑が建てられています。さらにその傍らに昭和46年(1971)博士の長子夫妻、および第二次世界大戦で、戦死した孫たちの墓石が置かれました。これは祖国のために散花した若者の菩提を弔うとともに平和への願いをこめて、その友人が造ったものでありました。

 古来当寺院の四周は山川草木の美に恵まれ眺望もまた絶景、いつの頃からか人々により西明禅寺の六境として詩歌にも歌われてきました。緑滴る三高峰・姫街道よりの参道万松関・定基公遺跡六光跡・愛染明王堂のあった愛染池・不動堂の設けられた不動坂および古戦場鷺坂が数えられ、文人墨客の来遊が頻りであったといわれます。これらの風景は時の流れとともに移り変り昔のおもかげを留めぬものもありますが、たゞに風光を賞するのみならず、これに接して清浄心をおこし萬象と円融自在の境に遊ばれますようお祈り申す次第であります。