由緒沿革
天正18年(1590)北条氏の小田原城は落城する。この小田原攻めに丹羽郡御供所(大口町豊田)出身の堀尾金助も参加したが、陣中で病気になり18歳で没しました。彼の父・茂助は信長、秀吉にしたがって軍功をたてたが、わが子・金助をあわれみ、その菩提のために京都妙心寺に俊厳院を建立し、金助の13回忌には老母はその冥福を祈って東海道筋の精進川にかかる裁断橋の架けかえをしました。
この堀尾氏の屋敷跡に桂林寺はあります。寺伝によれば文明16年(1484)桂林祖香が開山し、ご本尊に聖観世音を泰安して長楽寺と称しました。その後永禄12年(1569)兵火のために堂塔を焼失し、正保年間(1624〜43)に僧龍嶽が現在地に再建して大香山桂林寺と改称しました。
本堂は2層の堂々たる建物。寺伝に寛政7年(1795)の大般若経600巻、元禄11年(1624)の梵鐘があります。また、境内には堀尾茂助と妻、そして金助の供養塔があります。
桂林寺では、毎年大晦日に除夜の鐘とともに、手筒花火も奉納され、多くの方が訪れ賑わいを見せている。
その他、水子供養も執り行われ、近年ではあらたに永代供養塔の建立や墓地が増苑された。